「関谷さんについて」の中で書いていたら、意外に楽しくなり長文になったので、こちらのページに移しました。
これまで生きてきた中で、ITに関する部分を抽出して昔話として構成しました。現在40代後半の方には刺さるかもしれませんね。
昔話(長いですw)
小中学生の頃
小学校高学年の頃、コンピューターやゲームが流行り、この流れに乗った漫画もたくさん出版されました。好きだったのは、出っ歯の小学生でゲームに命を懸けていた「ゲームセンターあらし」をよく読んでいました。コンピューターで出来ることなんてゲームしかないと思っていましたが、新しいテクノロジーに心惹かれ、とにかくゲームをするためにコンピューターが欲しいと切に思っていた時代でした。
一番最初に購入したコンピューターは、お年玉をためたお金で購入したカシオのPB-80でした。当時小学校5年生で、本当はメモリ容量の大きなPB-110が欲しかったのだけど、小学生のお小遣いで買える限界がPB-80でした。それでも1万円少し出したのを覚えています。
このPB-80で、ビープ音を10回繰り返すプログラムを作って動かしたのが、人生初のプログラミングだったと思います。プログラム通りに音が鳴った時には感動しました。また、コンピューターの世界の可能性をすごく感じたことを覚えています。たった11文字しか表現できない1行のLCDキャラクタディスプレイでいろいろ遊びました。当時は、「マイコンBasic Magazine」というコンピューターの種類別にソースコードが掲載された雑誌があり、PB-80やPB-100用に掲載されたプログラムを一生懸命入力して遊んでいました。このときはソースコードの各行の意味など分からず、ただただ入力して動かすことだけを楽しみにしていました。小学生でしたしね。
この頃、ゲームセンターあらしを主人公とした、すがやみつる著作の「こんにちはマイコン」という漫画でプログラミングがどういうものかを学びました。小学生でもわかる言葉で説明されていて、Basic Magazineに掲載されていたソースコードが読めるようになったのもこの漫画のおかげです。
小学生も高学年になると色気づいてきて、好きな女の子が誰なのかなんて話が出てきたりしました。そんな中、持っていたPB-80で相性占いを作り、友達に好きな女の子との相性を占ってあげたりしました。もちろん、ちゃんとした占いなんてものではなく、入力した名前をシードにした乱数で相性を0%から100%でランダムに表示するだけのものです。これがとても人気となり、いろんな人の相性を占うことになりました。途中から、低い相性だと落ち込む人がいることに気が付き、50%以下の相性が出ないように修正したりしました。カンの良い人は気づくと思いますが、入力された名前は全部メモリに格納して、後から確認できるものでした。そのため、女子も男子もクラス全ての好きな人が誰なのか知ったりして人間関係を楽しんだりしました。
中学生になると色々見えてくるものがあり、1980年代のPCは高くて一般家庭で購入できるものではなかったのに、お金持ちの友達がPC-8801mkⅡを買ってもらったなんて話を聞くと羨ましくてしょうがなかったです。といっても、やることなんてゲームしかなくて、当時はやっていたザナドゥ(Xanadu)をプレイしてみたかったくらいなのですが。どうやって見つけたのか忘れましたが、そんな人たちのために、PCを時間貸ししてくれるサービスを提供しているお店を見つけました。今のネットカフェの走りのようなものです。今ではどこにでもネットカフェはありますが、当時は1件しかありませんでした。30分100円でPCを触らせてくれて、必要なデータはフロッピーディスクに保存できるサービスを提供していました。毎月のお小遣いをもらうたびに通っていた覚えがあります。そこでプログラミングをしていたわけではなく、流行りのゲームばかりしていました。PC-8801やPC-9801、MSXに触ることができるのはそこでだけでした。
高校生の頃
この頃はコンピューターから離れていたので、関連するエピソードはありませんでした。
でも、翠巒祭や、定期戦、生徒会活動などで、濃密な人間関係の中でとても楽しく高校生活を過ごしました。
今でも高校の頃の思い出は至高です。高高出身者は、みな同じ経験をしていると思います。
大学生の頃
大学に入学した際に、学校で必要だからという理由で親に無理言ってMacintosh LCを買ってもらいました。でも、この子が悪いのか、私が悪かったのか、ろくなことができなくて宝の持ち腐れとなってしまいました。無理言って買ってもらった親には申し訳ないと思う今日この頃です。
Macintosh LCでプログラミングの勉強をしようと思い、アルバイトしてためたお金で「Think C」という開発環境を購入したのですが、これもソフトが悪いのか、私が悪かったのか、やりたいことができず、ろくに使うことができませんでした。もちろん、「Hello world!」は出力させましたが、それ以上何をさせたらよいのかは想像力が働かず、情報処理技術者試験のプログラム実習用の教材以上の働きをしませんでした。結局、Macintoshはウンコと思って大きな文鎮となり果てました。Think Cのドキュメントが半分以上英語で書かれていたため、とっつきにくかったのも理由の一つです。今にして思えば、残り半分の日本語も、英語を直訳したような日本語だったため、何が書かれているのかさっぱりわかりませんでした。
一方、大学で知り合った友達はDOSV機であるコンパックのプレサリオを購入し、楽しんでいたのを横目で見ていました。何を楽しんでいたのかって、ソリティアをはじめとしたゲームばかりでしたがw
Macintoshに愛想をつかしたので、Appleはだめだから、DOSV機を購入しましょうとアルバイトに励みました。当時通販でDOSV機を扱うPCショップがたくさんあり、安く機能の高いPCをどこで買えるかを「DOS/Vマガジン」などの雑誌でさんざん研究した覚えがあります。その中には、オウム真理教が経営していたマハポーシャというショップもありました。結構いいスペックを安価に提供していたので、購入を検討していた覚えがあります。初めて購入したPCは、当時「DOS/Vパラダイス」というショップで現在の「ドスパラ」で購入しました。スペックは、Pentium 90MHz、メモリ8MB、HDD 850MB、Windows 3.1でした。これで24万くらいしたかと思います。初めて起動したときは、DOS画面だけで、Windows3.1を起動するための設定として、config.sysやautoexec.batなどをいろいろいじりました。DOSV機を購入した翌年に、Windows95がリリースされました。この時は、普段通っていたPCショップが、特別に日替わりの0時からWindows95を販売することになったので、時間の余裕のある学生だったこともあり、誰よりも早く入手するために前日の23時から友達と並んだ覚えがあります。テレビでもニュースになっていましたね。当日は、家に帰ってから即インストールして徹夜しました。翌日は友達とインストールした結果のレビュー会でしたね。新しいユーザインタフェースにわくわくしたことを覚えています。
Windows95を入れたのはよかったのですが、プログラミングの勉強をするためにはコンパイラが必要で、高いお金を出して購入しなければならないことがわかりました。それで、C言語ではありませんが、Windowsのアプリを容易に開発できるといううたい文句のボーランドのDelphiや、データベースソフトである同じくボーランドParadoxを購入しました。Delphiは楽しかった。MicrosoftのVisual BasicもRADツールとしてリリースされていたのですが、中間コードを吐いて実行時はインタプリタによる動作だったので、動きがもっさりとして当時は使いどころの難しい開発言語でした。一方、Delphiはネイティブコードを吐くので、ストレスなく動作しました。プログラミングすることが楽しくて、使い物にならないどうでもよいアプリをたくさん開発した覚えがあります。
この頃、インターネットはまだ普及しておらず、日本のホームページはNTTのサイトのみという状況で、PCを使う人はオタクなどと言われて遠巻きにされた時代でした。「七人のおたく」というタイトルの映画がリリースされたのもちょうどこの頃でした。関谷さんもおたくの一人だったのかもしれません。インターネットは普及していませんでしたが、Nifty Serveのパソコン通信はPCを持っている人であれば普通に使っていました。電話回線に9600bpsのアナログモデムを使い、Nifty Serveの掲示板やチャットにアクセスし、毎晩いろいろな人と知り合いました。アパートにいながら、日本全国のいろいろな場所の人と知り合えることに興奮した覚えがあります。仲良くなった人と初めてのオフ会は、チャットで知り合った社会人とでした。これはこれで楽しかったですね。
Windows以外のBSDやLinuxに初めて触れたのもこの頃でした。きっかけは、「BSDを256倍使うための方法」という本で、大学の生協に平積みされていたので興味を持って手にしたのが始まりでした。Windows OSは有料で学生にとっては購入を躊躇する結構な値段しましたが、BSDやLinuxはフリーで手に入れることができ、コンパイラもついているというのを初めて知りました。パソコン雑誌を購入すると、BSDやLinuxのインストールCDが付録として付いていたのです。そこで、興味本位にBSDやLinuxをインストールを何度もするに至ったのですが、Windowsは使い続けたいため、HDDをデュアルブート可能にしてOSをスイッチできるようにしたり、HDDを換装してOSを変更できるようにしたりして遊んでいました。これはこれで楽しかったですね。
また、大学ではランダムウォークの計算課題が出て、普通に計算させると30日かかると言われたので、大学の共同計算センターの計算機を複数台使い、計算時間を短縮させたら、たくさんの計算機リソースを使いすぎて怒られたのも懐かしい思い出です。
就職してから
ソフトウェアの開発を行いたかったため、また、高校生の頃からお付き合いしていた女性と将来的に一緒になろうとも考えていたので、群馬に戻ってソフトウェア開発関連会社にUターン就職しました。しかし、残念なことに、戻ったその日にふられてしまいました。会社が電話機関連の事業を行っていたので、ファームウェアの開発がメインでしたが、ファームウェアに興味はなく、オープン系の開発に興味があったことと、ふられたので群馬にこれ以上いたくなかったこともあり、遠方にある事業所を要望し、そちらに進むことにしました。
そこでは確かにオープン系の開発は行っていましたが、経験者が少なく、何もかもが手探りで、外注さんの方がWindows開発の知識と経験を多く持っていたため、基本外注さんに使われるという意味の分からない状況が待っていました。そして、ここからが怒涛の毎日でした。当時組合のない会社で(今はあります)、労働基準法も飾りのような状態だったため、毎日残業が続き、月平均残業時間は100~180時間で、ひどいときは200時間を軽く超えていました。今で言うところのブラック企業です。こんな状況が10年以上は続きました。いろいろ思うところはありますが、10年で軽く20年分以上の労働時間を経験し、そのおかげかスキルも育ち、最前線で戦えるSEにまでなりました。
最近
結婚もしたし、息子と娘ができて、息子はもう就職したし、娘はまだ大学生だけども、子育てはもういいかなと思う今日この頃。
遠くは見えるけども、近くが見えないという意味の分からない老眼に悩まされ、白髪も徐々に増えて、年齢を重ねているのがわかるのが嫌で、毎朝ジム通いするモーニングメソッドを実践中。
昔話のページなので、最近のIT関係の話は別記事にします。
最後に
昔のことを思い出して記事にするのも楽しいものだと思いました。また何か思い出したら、記事にしようかと思います。あるいは、そのうちに、誰が読むのだろうと思いつつも近況を別の記事で起こすかもしれません。
では、また。