関谷さん

昔話2 '90s

はじめに

今回はかなりどうでもよい昔話です

何かの拍子で、ふと昔の作品に触れることがあると思います。それをきっかけに、その当時にあった出来事や思い出などを克明に思い出して、なつかしさを感じるとともに、年を取ったとも感じることがあるのではないかと思います。

たまたま昨日、CHAGE and ASKAのライブビデオSEE YA!を見る機会があり、なつかしいあまり、最初から最後までみてしまいました。その中の「太陽と埃の中で」のなつかしいことったらありません。

確か大学1年生の頃に流行った曲で、友達とカラオケに行くたびに歌っていました。

今、40代の方はこのフレーズを覚えていると思うのです。

追いかけて 追いかけても
つかめない ものばかりさ
:
Day and night time, rain and sunshine
I seek my dream everywhere

今にすれば青臭くてアレなんだけど、当時大学生だった関谷さんには心に響くフレーズでした。

そんな郷愁に浸ったこともあり、90年代に経験したIT事情などについて書いてみようと思います。

'90s

PCと通信インフラ

OSは今のように使い勝手の良いものではなく、まだ真っ黒の画面にコマンドを入力して使うキャラクタ端末のMS-DOSが全盛で、エクスプローラーなんてなくて、よくてFDを使う時代でした。ちょろちょろとWindows3.1が使われはじめてくると、流石にUIが直感的なので、この頃からじわじわとユーザが広がっていった感がありました。開発環境なんて、MSC(Microsoft C)しかなくて、よくあの640x480の狭い画面の中でコーディングできたものだと今もって感心します。

当然、今にすると驚くべきことに、PCは一般的ではありませんでした。そして、インターネットは全く普及していませんでした。それよりも、NiftyServe(ニフティサーブ)というパソコン通信がPCを持っている人たちの中では一般的で、2,400bpsから9,600bpsのものすごい遅い回線速度の中で、モデムとアナログ電話回線を通してtelnetでニフティに接続し、掲示板やチャットを毎晩楽しんでいる時代でした。PCがそこそこ高価であったこともありますが、あまり普及していなかったこともあり持っている人たちは、「オタク」なんて呼ばれて、一般の人たちとは別の世界に住んでいる認識を持たれていました。「七人の侍」をもじって、「七人のおたく」なんて映画もありました。オタクであることを恥ずかしがり、隠れオタクなんてのもあって、チャットで知り合った人の中には、PCとパソコン通信をしていることを隠している女性も結構な数いました。今よりも同調圧力がはるかに強い時代だったから、異端として排除されるのが怖かったのはわかります。日本はほんとにおかしな国です。

当時の電話料金は使用した時間に比例して課金される従量課金制だったので、毎晩数時間もパソコン通信を行っていると、アクセスポイントが同一市内にあっても月の電話料金がやたらと多くなるなんてこともありました。毎日授業が終わりアルバイトが終わると22時ごろに帰宅していたのですが、それから1時、2時までパソコン通信で毎晩遊んでいました。結構いろんな人がいて、チャット待ち合わせ室でまったりしていると、すぐに声をかけてどうでもよい話を毎晩していました。この頃に、文字で表情を表現する絵文字が発達したと思います。最初の頃は、絵文字はオタク文化なんて言われていあたんですよ。リアルタイムのチャットでは、即座にレスを返さないとすぐに話題が変わってしまうし、調子よくお話しできなくなるので、タイピングスピードが一気に上がった覚えがあります。また、ショートカットキーにいろいろな絵文字を登録して使いこなすようにもなりました。人間、限られた環境の中で効率的に目的を達成させようと考えると、いろいろなことをやり始めるものだと今にして思います。

MacとDOS/V

大学を入学した時に、学校の授業で必要だからと、無理を言ってMackintosh LCを買ってもらいました。当時Mackintoshは、まあまあお高くて、学生が手にできるようにお手頃価格のMackintosh classicなんて白黒のMacもありました。どうしてもカラーが欲しかったので、もう一つ上のグレードのLCを親にねだったのですが、かなりお高かった割に、1年もたたずに部屋のインテリアになりました。ほんとにもったいなかった。C言語の勉強もしようと思い、アルバイト代から5万円という当時の金銭感覚ではとても高価なお金を出して開発環境であるThinkCを購入したけど、情報処理技術者の試験対策にしかなりませんでした。そもそもメモリもHDDも足りな過ぎたし、何よりドキュメントが全部英語で高校卒業したばかりの読解力で読み込めるものでもなく、何かを作ろうとするにも、想像力が足りず、世の中のシステムを少しでも知っていればもう少しましだったのでしょうが、十分に活用できず自己投資した5万円は勿体ないことになりました。あほな学生でした。

友達はコンパックのプレサリオを買っていて楽しそうでした。毎晩遊びに行くたびにソリティアやフリーセルをさせてもらっていました。特に友達はパソコン通信が楽しそうでしたね。それを見て、関谷さんもDOS/V機を購入しましょうといろいろ調べました。当時はDOS/V機の雑誌も豊富で、様々なパーツショップの広告があり、うまくするとNECや富士通などの国内メーカーの製品よりも安く高性能なマシンを作ることができました。オウム真理教のDOS/V機の通信販売をやっていた「マハポーシャ」というところの広告にも目を付けていて、結構お安くて性能のいいDOS/V機を扱っていたので購入しようかと検討したこともありました。また、近くにPCショップもあり、パーツを入手することができたのも大きかったです。それで初めて購入したDOS/V機はアルバイト代半年分の24万をかけて購入しました。CPUは当時出たばかりのPentium90MHzで、メモリ16MBで、HDD850MBです。超高性能だよ、と喜んでいました。でもやることは、パソコン通信とソリティアとフリーセルでしたがね。

Linux(Windows以外のOS)との出会い

大学の生協の本屋に、「BSDを256倍使うための本」というのが平積みされていました。BSDって何さ?というのが最初の印象でした。大学の計算機センターにはUNIX端末があったのだけど、なんだかプロフェッショナルな雰囲気を持つので触ってみたいと思う反面、使い方も使う機会もなくて残念だったのだけれども、BSDがPCにインストール可能なUNIXであることを知ると、一気に興味がわきました。それからは、どうやったら自分のPCにBSDをインストールできるのかをいろいろ調査した覚えがあります。

この調査の中で、LinuxというOSがあるという事を知りました。1991年当時、Linus TorvaldsさんがLinuxカーネルを公開した頃でした。それを知ったら、OSって作れるんだ!と、当たり前のようなことに感銘を受けてさらに興味がわきました。ここからしばらくOSマニアの道に進むことになります。つまり、BSD、Linux、それからLinux派生のディストリビューションやLindowsまで、複数のOSをブートできる仕組みを作ったりと、OSを入れて動かすことに楽しみを感じて邁進していたころです。で、何をやりたかったかって、OSを変えてパソコン通信をしてみたり、ゲームしてみたりと、生産性のかけらもないことをやっていました。

ああ、今思い出してもあの頃は楽しかった。一つのハードディスクに複数のOSを搭載して、起動時に起動するOSを選択できるようにしたり、複数のハードディスクを引き出しのように簡単に換装できるようにしたり、だから何?と思うかもしれませんが、それが楽しかったのよね。雑誌の付録にOSが付いていたので、新しいOSを見つけるたびにインストールして試してみたりしました。

当時のディストリビューションはSlackwareとDebianしかなかったのですが、ものすごい増えましたよね。そのうちの一つのリアルタイムLinuxが現在の仕事に使っているOSの一つだと思うと感慨深いものがあります。WikiでLinuxディストリビューションを調べてみたら、すごいことになっていたのですね。参考に載せておきます。

Windows95の登場

1995年11月23日にWindows95が発売されました。当時は、静岡大学の学生で静岡市に住んでいました。隣町の草薙市内に行きつけのPCショップがあり、秋葉原のPCショップと同様に0時を過ぎたらWindows95の販売を開始するなんてイベントがありました。もちろん22時ぐらいからお店の前で並び始めて、0時になると同時に購入しました。秋葉原では結構長い行列ができましたが、草薙のPCショップでは30人くらいの列ができたくらいでした。ほとんど学生だったと思います。時間が有り余ってますからね。また、Windows95が初めて購入したOSだったと思います。

もちろん、購入して家に持ち帰ってすぐにインストールしました。好奇心の塊だったのもありますが、Windows95の前評判が高かったので、出来るだけ早く触ってレビューしたいというのがありました。そしてパソコン通信を通して、「俺のPC、Windows95になった」と言いたかっただけのような覚えもあります。Windows3.1と比べると、UIがすっきりして、すかした印象を持った覚えもあります。

PCが市民権を得たのは、間違いなくWindows95のおかげです。これ以降、複数のアルバイト先のスタッフからWindows95を買いたいのだけど相談に乗って、という話を受けるようになりました。

プログラミン

折角PCを手に入れたのだから、パソコン通信とゲームだけでなく、何かアプリケーションを作りたい、と思い、C言語の勉強をしていました。ところが、Windows APIの敷居は結構高く、ここでもほとんどのドキュメントが英語だし、そもそも書籍しかなくて、高くて手が出ませんでした。そんな中、RADツールというのが出てきて、Visual Basicという開発言語が出てきました。でもこのVisual Basicは曲者で、ネイティブコードを吐き出さず、中間言語しか作れないインタプリタだったので、猛烈に遅かった。よくこんなものリリースしたな、と思うくらい猛烈に遅かった。ボタンを押してから画面が変わるまでにいったいどれだけ時間がかかるのさ、なんてのは序の口で、どう考えてもクラッシュしたろ、と思わざるを得ないくらいレスポンスが遅いこともありました。使い物にならないツールで何かを作る気にならなかった頃に出てきたのが、当時のBolandからリリースされたDelphiでした。これはすごかった。言語自体はC言語ではなく、Pascalだったけど、構文がほぼC言語だったのでそれほどとっつきにくさは感じず、ネイティブコードを吐き出すから、作成した実行モジュールがサクサク動きました。何より、画面設計が直感的で、画面にコンポーネントを配置して、各コンポーネントの動作をコーディングすることで動作するアプリケーションを作ることのできるRADツールでした。お高い開発ツールだったのだけど、学割が効いたので購入に踏み切りました。ここから、どうでもよいものをいろいろ作った覚えがあります。じゃんけんとか、永遠と水滴が落ちるとか、ボタンを押したら壁紙が変わるとか、そういうどうでもよいやつ。でも楽しかったね。

さいごに

'90年代は自分の持っている世界がどんどん広がって最高に楽しかった。

今にして思えば、当時もっといろいろと踏み込んで試してみればよかったと思います。

ところで、最近よく聞く、DXとか、AIとかは、ビジネスの世界で勝手に企業がやればいいと思ってます。なんか、2000年の頃の企業主体で進んでいたドットコムバブルのように見えるよのね。誰かが流行らせたいのだろうけど、それは大企業の偉いおじいちゃんたちの間で流行らせて勝手にやらせておけばいいやと思っているのよ。だって、もう20数年前からDXもAIと名前は変わっているけど、要するにパターンマッチングと遺伝アルゴリズムの技術はあったし、取り入れていたわけだから。時代がやっと追いついてきたかと思う今日この頃。

でもね、

最近は、ブロックチェーン技術に基づいたNFTが、まだまだアンダーグラウンドの様だけど流行りつつあるじゃない。まさに、'90年代の頃のPC黎明期や、2000年代のYoutube黎明期と同じ流れに見えるのよね。10年後の2030年くらいには、大企業の偉いおじいちゃんたちが今度はNFTだ、なんて言い始めるよ。20年後の2040年になれば、当たり前の技術にまで発達しているでしょうね。今からNFTの技術に関わり、その根本を理解して身近な技術として取り入れておくことは、技術者として全然ありだと思う。ビットコインに投資する気にはならないけど、NFTはありよ。だって、面白そうだもの。

そのうち、NFTネタの記事も書いてみようかと思います。

では、今日も良い一日を。

-関谷さん
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